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6 | H18.6月以前 | 高野山、京都の義経、藍那の義経、百舌鳥の古墳、夕陽丘界隈、十三街道 |
5 | H17.7月以前 | 野洲(銅鐸),白川スーパー林道,当尾の石仏,福岡城,琵琶湖ウオーク, |
4 | H17.2月以前 | 新選組を京都にたずねて/ 韓国旅行(プサン)/五條市・熊野古道・その他 |
3 | H16.12月以前 | 熊野三山・大門坂 森林公園 書写山 出石町など |
2 | H16.6月以前 | 葛城・高雄・六甲山・志賀島 |
1 | H16.5月以前 | 弘川寺(西行終焉の地)・湖東三山 |
H18年12月20日 高瀬川散策 歴史散歩の会で高瀬川を散策した。 高校時代の修学旅行で高瀬川を見たとき、あまりにも汚い川であったので、がっかりしたのを 今でも覚えている。が今は綺麗に歴史の道として整備され、またその歴史を知ることもあって 情緒あふれる川ととして感じられ、天気の良いこともあって気持ちよく散策した。 コースは 京阪丸太町→鴨川からの取水口→角倉邸跡→維新の史跡→船着場→五条楽園→鴨川合流口→東高瀬川口(九条) 高瀬川 参考サイト 高瀬川 参考サイト2 そのた写真 スライドショー推奨
(左)みそそぎ川 加茂大橋で鴨川から分かれ 河川敷にあるみそそぎ川 この川の水を次の取水口 から取り込む。 (右)高瀬川取水口 角倉邸跡(現がんこ)の横に 取水口はあった。 直ぐ横には舟入という港が (荷の積降ろし場)設けてある。 | ||
(左)高瀬川の流れ(五条) 今は観光用にきれいに整備され 紅葉が川面に垂れる様子は 絵になる風景となっている。 運河の時代はもっと違った 風景」だったのだろう。 (右)九条で鴨川に流れ込む 八条あたりから、高瀬川は汚くなり 九条で元の鴨川に合流する。 ロマンある合流を期待したが 現実はこの有様だった。 ここから川向の東高瀬川と 過っては連絡していた。 東高瀬川 |
H18年11月21〜22日 日本最古の粟津温泉を歩く 習い事の教室で一緒の友人に誘われて、粟津温泉に12名で行った。 老大の26期を中心とするメンバーで、彼らの企画について行った感じである。 粟津温泉 参考サイト その他写真 スライドショー推奨
(左)粟津の温泉街 1300年の歴史を誇り 奈良時代からあったと言われる 粟津温泉。その街並みを見てみた。 皆、カラオケをやっている時に 1人粟津の町を散策。 (右)総湯 ここはギネスにも載る古い温泉 外から見るとそんなに有名とは 見えない。 美人の湯だが、すでに美人の 連れの女性達には必要ないか? 総湯 参考サイト |
H18年11月15日 まぼろしの「大仏鉄道」跡を歩く 明治末にわずか9年間だけ存在した「大仏鉄道」。 その痕跡を訪ねて、歴史散歩した。 鉄道会社が統廃合をくりかえした揺籃期、思惑のすれ違いから生まれたものだろう。 すぐ廃線になったのが、却って当事の姿をを今に告げることとなっている。、 美しい石組みに、当時の開発者の苦闘と、新規事業の見通しの難しさが滲み込んでいる。 コースは JR加茂−ランプ小屋−C57展示場−観音寺橋台−観音寺小橋台−鹿背山橋台−稲荷神社 −梶ケ谷トンネル−赤橋−大仏鉄道路線跡−築提跡−松谷川トンネル−鹿川トンネル− 黒髪山トンネル跡−大仏鉄道駅跡−JR奈良駅 大仏鉄道研究会 参考サイト 大仏鉄道 参考サイト その他写真 スライドショー推奨
(左)ランプ小屋 まだ電気が普及していなかった当時 ランプは信号を発信したり 夜間の客車の照明に使用した。 この小屋はそんな道具類の収納用。 鉄道の命綱の道具類があった。 (右)赤橋 ここは大仏鉄道でも最も有名 美しいレンガ作りの橋である。 写真の関係でその美しさが 伝えきれてないのが残念 橋は石と木とレンガで出来ている。 | ||
(左)鹿川トンネル 農業用水路のために作られた。 現在のコンクリート製に比べ 美しさが違う。 当事の苦労が偲ばれる。 (右)大仏駅跡 駅跡付近のモニュメント 動輪が人間の背より小さく 小型の機関車だった。 坂道では乗客が降りて列車を 押したと言われている。 |
H18年11月5日 茨木市の樹めぐり 茨木市民博の「樹めぐりの旅」に参加した。参加者は以外に少なく、スタッフを入れて11人だった。 住んでいる茨木市の老木を見ることで、歴史と地理の再発見となった。 コースは 中村邸(タブの木)→浄福寺(銀杏)→溝咋神社(銀杏)→須賀神社(楠) →牟礼神社(楠)→駅前(カナリー椰子)
(左)タブの樹 個人の住居である中村邸の中にある。 呼鈴を押すと中から40前後の主人。 広い庭に入り、木の大きさを測る 樹高13m 幹周 3.3m タブの木(椨の木)参考サイト (右)溝咋神社の銀杏 溝咋神社の歴史は古く神武天皇の 妃の出身地といわれている。 中には銀杏の巨木がある。 樹高23m 幹周 3.3m 溝咋神社 参考サイト | ||
(左)須賀神社 楠木 関西一の楠とはスタッフの説明。 確かに大きい。 樹高26m 幹周 6.7m 須賀神社の楠 参考サイト (右)牟礼神社の楠 この神社は大木が多くある。 中でもこの楠の木は横に張った 大木である。 樹高24m 幹周 3.8m 牟礼神社 参考サイト |
H18年10月18日 井真成の故郷?藤井寺 歴史散歩 井真成の藤井寺出身を検証するための歴史散歩に参加した。 葛井寺→大津道→善光寺→津堂城山古墳志疑神社→国府遺跡→道明寺→道明寺天満宮 平成16年に無名の遣唐使の墓誌が長安(西安)で見つかり、その出身が藤井寺でないかと云う説がある。 19歳で唐に渡り早世した彼の墓誌の内容は下記であるが、最後の言葉が泣かせる。 「 姓は井、字(あざな)は真成。国は日本。 生来の才能があり、よって命により、遠い国から唐に派遣された。 礼儀正しさは比類なく、勉学に努めて飽きる事なかったが、突然の出来事により 開元二十二年正月三十六歳で国の宿舎で亡くなった。 皇帝は(死を)悼み「尚衣奉御」を贈り、二月四日万年県サン水(現在のサン河)のほとりで国費により葬る。 白い馬車と旗をあげた葬列により盛大な葬儀が行われた。 参列者は遠くに落ちる夕日を見て、ため息をつき、墓場を目指して悲しんだ。 (死は)自然の理だが、母国の人も悲しんでいるであろう。 遺骨は異国に埋葬するが、魂は故郷に帰る事を切に願う。」 井真成 参考サイト
(左)葛井寺 近鉄藤井寺から200m位歩くと 葛井寺である。読みにくい漢字である。 藤井寺と葛井寺の関係を寺の人に聞く。 葛井寺 参考サイト (右)井真成の出身地? 彼の出身地と云われている藤井寺。 早いもの勝ちかどうか知らないが 最大限に藤井寺出身をアピール。 だが、若くから大阪に働きに来ている 私の望郷の念をくすぐる言葉に つい写真を撮ってしまった。 | ||
(左)津堂城山古墳 古市古墳群は日本有数の古墳地帯。 だが訪れたことはなかった。 古墳の内堀はコスモス畑。 丁度満開であった。 津堂城山古墳 参考サイト (右)国府遺跡 名前からすると律令時代に 役所があった場所なのだろうか 今は住宅が立ち並び 発掘もままならないのだろう 国府遺跡 参考サイト |
H18年9月20日 山内一豊の妻 を宇賀野に訪ねる。 歴史散歩 山内一豊の妻 千代の里を訪ねて、歴史散歩をした。 コースは JR坂田→八幡神社→若宮氏跡→元宮跡→宇賀野→田中孫作屋敷跡→山内一豊の母の墓→長野家屋敷 近江に千代の足跡を訪ねる 参考サイト
(左)JR坂田駅前 真新しい一豊の像が建っている。 NHKの放送が決まって建てた? ここから見るとこの辺は今も昔も 相当田舎だったのだろう。 一豊と千代の像 (右)八幡神社 応永7年(1400年)元宮から移転、 社殿が造営された。 地元の鎮守社として現在に至っている 八幡神社参考サイト | ||
(左)千代生誕の地若宮氏館 千代は浅井家の家臣 「若宮喜助友興」の娘として生まれた。 H4年以前は若宮左馬助の娘 「お松」と混同されていた。 千代生誕地若宮氏館参考サイト (右)長野家 少年の一豊は母とこの長野家にいた。 長野家に残る一豊と縁のある品として、 鏡、くつわ、桝、文献資料などが あるとされるが偽物との説もある。 長野家参考サイト |
H18年7月26日 信長の比叡山焼き討ち 歴史散歩 歴史散歩の会で信長の比叡山焼き討ちを追って、散策する。 一番暑い時期だったので、途中で1人熱射病で倒れ、救急車を呼ぶことに。 コースは JR比叡山坂本→明智塚→坂本城跡→滋賀員院門跡→慈眼堂→ケーブル坂本→ ほうらい丘・→焼き討ち犠牲者の石仏群→根本中堂→京都駅
(左)明智光秀像(坂本城跡) 1571年の比叡山焼き討ちの後 光秀はここの城主となる(普請)。 1582年に秀吉軍により落城する。 その後暫らくして廃城となる。 坂本城 参考サイト (右)滋賀院門跡 見事な庭園が無料で見れる。 外側の石垣も見事で 堂々たる構えである 滋賀院門跡 参考サイト | ||
(左)霊窟の石仏(蓬莱丘地蔵) 焼き討ちの犠牲者を弔うために 里人が地蔵を祀ったという。 真っ暗な洞の中に沢山の地蔵。 蓬莱丘地蔵 参考サイト (右)ほうらい丘地蔵群 洞の外にも沢山の地蔵がある。 女・子供まで腹を割き、首を落とす。 信長軍の殺戮は残酷を極めた。 |
H18年7月23日 大阪天満郷界隈 歴史散歩 市民活動団体”街ing茨木”の企画の歴史散歩に参加した。 コースは JR桜ノ宮→大阪アメニティーパーク→泉布観→洗心洞跡→大阪天満宮→ 天神橋商店街→住まいのミュージアム(解散)
(左)洗心洞跡(大塩平八郎挙兵の地) 案内の牧先生は”大塩平八郎の乱” という表現には、反対といっていた。 乱は体制側の表現であり政治の覚醒を 求めた義兵というべきと。 洗心洞跡 参考サイト (右)北森町 今は南森町の地名しか残っていない。 かっては北森町もあった。 今、北森町はビルの名前にのみ残る。 昔の神社は自然崇拝で森が主。 屋代は仏教の影響で出来た。 鎮守の森 参考サイト | ||
(左)ギャル神輿 写真を撮ろうと天六に行ったが 人でいっぱい。已む無く天五の方で 待ち伏せ戦法に出る。 結果うまくいった。 ギャルみこし 参考サイト (右)住まいのミュージアム 江戸時代の街並みが再現 大阪は古い文化は誇るべきだが 新しい文化もとりいれないと 商業都市の原点が泣く。 住まいのミュージアム |
H18年7月12日 みちのく 秘境めぐり VISAカードの宣伝につられて、東北地方へのツアーに参加した。九州生まれにとっては 東北はまさに秘境である。 コースは下記をまわる。 1日目 伊丹→大館能代空港→十和田湖→十和田湖温泉(泊) 2日目 奥入瀬(一部散策)→下北半島→恐山→南津軽温泉(泊) 3日目 津軽半島・竜飛崎→階段国道→太宰治記念館→白神山地・十二湖→男鹿温泉(泊) 4日目 入道崎→男鹿真山伝承館(なまはげ体験)→角館→田沢湖→いわて花巻空港→伊丹 その他写真
(左)伊丹からの搭乗機は小型機 阪急バスにしっぽの生えた位の DHC8-Q400.74人乗り。 後で調べてみるとトラブルの多い 飛行機と分った。そういえば 足を引っ込める時変な音がしていた。 DHC8-Q400 参考サイト (右)十和田湖 大昔に新婚旅行で寄った所。 秋田県と青森県にまたがるのは 改めて認識した。 あいにくの曇り空で視界きかず 十和田湖 参考サイト | ||
(左)奥入瀬・銚子大滝 奥入瀬は出発点の水門で 水量を調整してある。 ここ銚子大滝は奥入瀬の中でも 代表的なところ。 奥入瀬 参考サイト (右)奥入瀬・渓流 銚子大滝から白糸の滝までの 上流部分2.3kmを歩く。 その他は車窓。ポイントはバスを 止めて見せてくれた。 | ||
(左)恐山(日本三大霊場) 下北半島は不毛の地だ。 途中は牧場か漁村しかない。 やませによりいつも霧が架かる その先にある恐山 あの世の姿を現すという。 恐山 参考サイト (右)津軽半島竜飛崎 下北半島と異なり津軽は豊かだ。 半島もリンゴと稲作の畑が続く。 でも半島の先端はやはり冷たい 長袖シャツを着て外に出る。 竜飛崎 参考サイト | ||
(左)階段国道 歩行者専用の国道で行政も賢い。 おかげで観光客も喜ぶ。 津軽海峡冬景色の碑もある。 階段国道 参考サイト ♪♪津軽半島冬景色♪♪ (右)白神山地・12湖・青池 1704年の大地震によって 崩れやすい凝灰岩が崩壊して 出来た湖群。12個以上あるが 12湖に見えた事からこの名が。 12湖 参考サイト< | ||
(左)男鹿・入道崎 旧八郎潟の西に突き出た半島。 八郎潟は見る影も無く 破壊尽くされていてが 半島の先端は綺麗だった。 入道崎 参考サイト (右)なまはげ体験 男鹿真山伝承館という所で なまはげの学習講座をやっている。 神社と伝承館でなまはげの 話と実演を見聞する。 男鹿真山伝承館 |